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​代表あいさつ

代表取締役 小泉 賢貴

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弊社のホームページを訪れていただき、本当にありがとうございます。心より御礼を申し上げます。

本日は、代表の私が障害者介護事業を始めたきっかけや、この事業に対する私たちの想いについてお話をさせていただきたく思います。

正直、格好悪くて恥ずかしい話もありますが、ありのままの私を知って欲しいので、全て正直に隠さずお話します。少々長文になりますが、今しばらくお付き合いいただければ幸いです。

きっかけ

私が障害者介護に本格的に従事したのは2005年、とある介護事業会社に就職した一ヶ月後のことです。

高校時代から障害者ボランティアに携わっていた私は、
「大丈夫。大人になった今のほうがもっと上手に利用者と接することが出来るはずだ」
と妙な自信(慢心?)を持っていました。

そして、いよいよ迎えたサービス初日の朝。

初めての仕事は、知的障害をお持ちの松田さん(当時○○歳、仮名)という男性ご利用者と一緒に散歩をする、というものでした。

「こんにちは!」

松田さん宅に到着した私は、ドアを開けて元気よく挨拶をします。
ところが、玄関に出てきた松田さんからは
「黙れ!」
と怒鳴り声の返事。

予想外の展開に頭が混乱し、私は思わずひるんでしまいました。

が、何とか気持ちを立て直し、
「あの…一緒にお散歩を…」
と言うと、今度は、
「誰だ、お前は!出てけ!」
と玄関から追い出されてしまいます。

何を言っても松田さんは話を聞いてくれません。

それどころか、その後は顔も出してくれなくなってしまいました。

結局その日は何も出来ず、おずおず退散するしかありませんでした。

その後の私はと言えば、頭の中はもう真っ白。ただ呆然とするのみです。

正直、この時のショックは今でも忘れることが出来ません。

経験もあるし大丈夫、と余裕たっぷりだったつい先ほどまでの私は、いつの間にやらどこかに消え失せてしまっていました。

「どうしよう、、、」

松田さんへのサービスは「毎週」という契約です。
来週も、その次の週もまた同じサービスが入っています。

恥ずかしい話ですが、この時は、
「怖い。」「自分には無理だ。」「もう行きたくない。」
という気持ちで一杯でした。

次の週のことを思うと胃がチクチク痛くなり、どうにかして逃げられないか?と考える自分がいました。

しかし、会社の状況からしても私の代わりの人が直ぐに見つかる訳ではありません。

事実、「誰か代わりの人を」とさりげなく上司に相談しましたが、色よい返事は返ってきませんでした。

一方、逃げ出したい、との思いとは裏腹に、私にも男としての意地やプライドがあります。

せっかく就職できたこの会社で、成果を上げて認められたい、そんな気持ちもありました。

私は折れそうな心を封じ込め、
「よし、もう一度チャレンジしてみよう。」
と腹をくくり、何とか気持ちを切り替えました。

努力をすれば、想いは届く
そして、サービスを断られた次の日。

私はご家族、そして松田さんが通っている作業所へ相談に行きました。

その結果、松田さんは日常に大きな変化があると混乱してしまう事、だから会った事もない人間が訪問した事で松田さんは強い拒絶反応を示した事、でも人間関係が出来ればとても思いやりのある優しい方であること。

他にも色々な事を理解する事が出来ました。

(今思えばそのような情報は事前に入手するのがプロとして当たり前なのですが、お恥ずかしい話、当時の私にはそんな計画性もありませんでした。)

そして、その情報を基に、今度は本やインターネット等で松田さんの症状を調べました。

その結果、まずは私が一緒にいても大丈夫な人間であると分かってもらうことが必要だと分かりました。

その後、私は彼の通う作業所、ご自宅に毎日顔を出し、あたかも松田さんの周囲の人と親しいような素振りを演じ、徐々に松田さんとの心の距離を近づける努力を続けました。

そして、次のサービスの時。

前回同様、ドアを開けて挨拶すると、松田さんは少し嫌そうな顔で沈黙して立っています。

ドキドキする心を抑えながら、半ばひきつった笑顔で
「松田さん、良かったら一緒に松田さんが大好きなコーラを飲みにいきませんか?」
と努めて明るく声をかけました。すると、、、

なんと、松田さんは、しばらく間を置いて考えた後、靴を履いて出てきてくれたのです。
作戦大成功。この時の感動は、今でも忘れることができません。

このことをきっかけに俄然やる気になった私は、その後も人に聞いたり、本を読んだりして、松田さんのような症状の方にはどのような対応がベストなのかを模索し続けました。

特に、「楽しいね」「美味しいね」
など、柔らかく、短い言葉でプラスの言葉を繰り返し続けることは効果がありました。

そして、それから半年後。

松田さんと私はすっかり仲良しになり、ドアを開けて挨拶すると笑顔で迎えてくれる間柄になりました。

この件以降、私は障害者介護という仕事に強いやりがいを覚え、とりこになっていったのです。

​きっかけ

​大きな悩み

他方、介護の仕事に楽しみとやりがいを見出すことが出来た反面、サービスに深く関われば関わるほど、私は大きな悩みにぶつかっていきました。

それは、障害を持った方に対する、社会からの目線についてです。

私自身、沢山の障害者と行動を共にする中で、時には睨まれたり、さげすむような目で見られたり、ひどい時には「チッ」と舌打ちされたりなど、とても悲しい思いをする出来事に何回も遭遇してきました。

「どうして近くを通るだけでこんなに嫌な顔をするんだろう?」

「どうして同じ人間なのに、障害を個性として見てくれないんだろう?」

そんな状況に出会うたび、本当に情けなく、何度も悔しくて涙を流したことを覚えています。

また、「障害者」というだけでいじめられる、という現実も数多く目の当たりにしてきました。

未だに信じられない話なのですが、家に帰ってきた時、洋服にサインペンで「バカ」と落書きされていた私の利用者様(若年性知的障害者)もいました。

「何で社会の多くの人々は、障害を持った人を受け入れてくれないんだろう?」

そんな思いに日々悩む中、一方では
「何でうちの子がこんなひどい目に合わなきゃいけないの?」
と嘆き悲しみつつもどこかであきらめてしまい、社会に対して塞ぎこんでしまうご家族にも沢山出会いました。

「すみません」「すみません」
と周囲や社会に対していつも謝り続け、小さくなって生きている家族もいました。

また、誤解を恐れずに言うと、「社会が悪い」「教育が悪い」と社会を責めることで、かえって本人の自立を難しくしてしまっている家族にも沢山出会いました。

しかし、ご家族が今までに経験されてきた現実を思い浮かべると、ありきたりの言葉で励ましたり、「それは良くないですよ」と考えを正したりすることなんて、容易に出来るわけがありません。

何故なら、障害者がいる家族は全て、「少しでも自立できるようになってほしい」と心の底から願っているからです。

それは決して自分達家族が楽をしたいからではありません。

障害者本人の将来を考えての想いなのです。

「もし自分が先に亡くなったとしても、その先も笑顔で生きていってもらいたい」

そんな家族の言葉にならない想いが、私の胸にいつも突き刺さっていました。

社会と障害者との架け橋になりたい。

こんな現実を幾度も経験し、悶々と思い悩む中、私は、ふとした時にあることばかり考えている自分に気がつきました。

「障害者や障害者の家族が明るく毎日を過ごせるような社会を創るにはどうすればいいのだろう?」

「世の中の人に、障害者のことをもっと正しく理解してもらう必要がある。そのための情報発信や行動がなさすぎることが大きな問題だ。」

「障害者には、確かに独りでは出来ないことが沢山ある。

でも、本当は出来るはずなのにあきらめてしまっていることもある。」

障害者自身が社会の中でより自立した存在になるためには、「自分で出来ることを一つでも多く増やす努力が必要ではないだろうか。そのためのお手伝いなら、どんなに大変なことであっても喜んでやりたい。」

​架け橋になる

そんな想いがおさえられなくなった私は、自らの手で社会を少しでも変えたいと考え、独立することにしたのです。

それが今のこの会社、株式会社朝焼け を起業した原点です。

私たちが「社会」と「障害者」の架け橋になる。

ご利用者のニーズにお応えするだけの従来型の事業所に留まらず、利用者様との信頼関係を築き、お互いが共に向上出来る道を模索する。

そしてその模索のプロセスを世の中に向けて発信し、共感の輪を拡げる努力を続けることで、もっともっと素敵な社会が創れるのではないだろうか。

現在は、障害者だけでなく、高齢者向けの訪問介護事業を本格的に開始しています。

障害者介護から学んだことや、何より「社会との架け橋になる」という理念を胸に、障害者同様、
独りでも多くの高齢者が笑顔で過ごせるように活動してまいります。

私たちはまだまだ小さい規模の会社です。

でも、むやみに規模を拡大する気持ちは全くありません。

規模の大小よりも、思いを一つにした「強い」組織であり続けることを何よりも重視し、これからも着実に、少しでも多くの方のお役に立てるように頑張ってまいります。

どうぞ、これからもよろしくお願い申し上げます。

長文にも関わらず、また、拙い文章を最後までお読みくださり、本当にありがとうございました。

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